1605(慶長10)年4月16日、徳川家康は、将軍職を我が子・秀忠に譲り、駿府を隠居所に決めて、「大御所政治」を行ないます。慶長12年(1607年)から元和2年(1616年)の間、実質的に駿府城(現・静岡県静岡市)が日本の政治の中心として機能していました。では、なぜ、家康は駿府を隠居所に選んだのでしょう?
僧・廓山の記録から5つの理由が判明!
徳川家康が帰依した廓山(かくざん/駿府で家康に仕えて講説を行ない、後に増上寺13世になっています)の記した『供奉記』(慶長十九年冬御陳廊山上人袖中日記)がヒントとなる5つのキーワードをあげています。
理由1 幼少時代を過ごした地
まず、駿河には土地勘があったことが上げられます。徳川家康は幼少時代に駿府にあった今川義元のもとで人質生活を送っています。
三河国(愛知県東部)の土豪だった家康の父・松平広忠は尾張国(愛知県西部)の織田氏と敵対する今川氏に庇護を求め、6歳の竹千代(家康の幼名)を人質に差し出します。
ところが、駿府に移送する際に、竹千代は田原城で義母の父・戸田康光の裏切りで、織田家のもとに預けられます。
2年後に、織田信秀の庶長子・織田信広と竹千代の人質交換が尾張国・笠寺観音で行なわれて、竹千代は駿府に移り住みます。
天文24年(1555年)3月、竹千代は駿府の今川氏の下で元服。今川義元から偏諱(へんき)を賜って松平元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶(めと)っています。
初陣も今川軍としてで、織田方の寺部城(現・愛知県豊田市寺部町)を攻め、その武勲で今川義元から腰刀を贈られているのです。
竹千代時代の家康は人質とはいえ、教育を受け、元服、初陣をしてさらには結婚と、それなりに安定した楽しい人生を送っていたことがわかります。
小梳神社(おぐしじんじゃ/現・静岡県静岡市葵区紺屋町)は、家康時代には駿府城内にあり、人質時代に境内で遊んだと伝えられています。
理由2 避寒の地で老後にピッタリだったから
第2に避寒の地ということが上げられます。駿府は、北に富士山や南アルプスが連なっており、冬が暖かく老人が過ごしやすいことが『供奉記』にも記されています。
実際に、静岡市で雪を見ることはまれで、静岡県では「雪見遠足」が行なわれているほど温暖です。
江戸城の緊急脱出ルートは、甲州街道で、甲府城がいざという時に逃げ城となっていましたが、甲府ではやはり老後の身には堪えると考えたのでしょうか。
また、家康には側室が多く、その側室も温暖な地の方が住みやすいという考えもあったと推測できます。
側室・お愛の方(西郷の局)の墓は宝台院、側室・お久の方の墓は華陽院に、側室・お万の方の供養搭は蓮永寺にあります。
理由3 駿河米の美味しさが天下一だから
ちょっと意外な理由なのが、徳川家康が帰依した廓山が駿河米の美味しさを理由の一つに上げていること。家康は、「長生きこそ勝ち残りの源」であると、医食同源には非常に気を使っていました。
将軍としては質素な食事で知られる家康ですが、同時に美食家であったことも推測できます。
駿河湾であがった鮮魚、駿府で採れた旬の食材は、子供時代に慣れ親しんだ味だったのでしょう。
米も新潟や秋田などが主産地となるのは改良が進んでからのこと。コシヒカリの誕生も昭和31年と、家康時代には濃尾平野を有した尾張などが米の主産地だったのです(石高があったことが天下人への道でもありました)。
家康の時代には比較的に温暖な地で栽培され、しかも肥料が容易に手に入る地の米が美味しかったことは当然のことでしょう。
駿河で産するもののなかでも、とくに特産の「折戸なす」は家康の大好物でした。
「折戸なす」は、三保半島などで栽培される茄子(ナスビ)。縁起がいいとされる初夢の「一富士、二鷹、三茄子」は、実はすべてが駿河国の名物なのです。
家康が駿府に隠居することを決めた時、側室のひとりが「なぜ駿府のような小さな町に移られますか、理由が解りません」と言上。
すると家康は、「駿河には一に富士山、これは三国中(日本・中国・天竺)唯一の名山。見飽きることがない。二に鷹がよい。三に茄子を名産として、他所より早々に食べられる。またすばらしく美味じゃ」と語ったのだとか。
理由4 駿府は要害の地だから
西に大井川、東に富士川、北に赤石山脈、南に太平洋という軍事的な配慮もあったと想像できます。
大御所時代には、秀頼、淀君が大坂城に陣取って、豊臣家の復興を虎視眈々と狙っていました。
それを阻んで、息子である2代将軍・秀忠の江戸幕府を安定化させるのは、防御線として西に大井川がある駿府は絶好の地だったと思われます。
家康は浜松城主時代に駿河をめぐって武田信玄に、あわやという窮地に立たされてもいますが、駿河の重要性は誰よりもわかっていたのでしょう。
「一富士、二鷹、三茄子」の鷹は、鷹狩りの地という点。実際に家康は駿府に移ってからもたびたび鷹狩に出かけ、死因とされる天ぷらも鷹狩途中で立ち寄った田中城で食べたもの。
鷹狩は、実は軍事訓練、そして政情視察という目的があり、源頼朝の時代から駿河は鷹狩に絶好の地として知られていました。
慶長11年(1606年)3月、上洛の途中で、駿府城を巡検した家康は、翌年から駿府に住まうことを宣言し、当時の城主である内藤信成を長浜城(近江国)に移しているのです。つまり、関ヶ原合戦から6年後には駿府居城を宣言、ということはかなり前から「老後は駿府」と考えていた可能性があるのです。
理由5 大名や使節が拝謁に便利だから
最後になりますが、諸大名が参勤交代で通るおりに拝謁に便利という便宜的な理由もあげられます。
駿府に暮らす家康ですが、実際にそのブレーンを見ると、「武家諸法度」を起草した僧侶・金地院崇伝(政治・文化面のブレーン)、儒学者の林羅山(学問・文教政策)、豪商・茶屋四郎次郎(貿易・経済面)、三浦按針ことイギリス人のウイリアム・アダムス(外交顧問)とズラリとトップクラスの精鋭を並べているのです。
ここで外国からの使節団を受け入れ、ウイリアム・アダムスらは家康に正確な諸外国の情報をもたらし、オランダと国交を結ぶなどに尽力しています。
イギリス国王ジェームズ1世の使者ジョン・セーリスは、慶長18年(1613年)、貿易交渉のため駿府城を訪れています。
『駿府記』によれば、この時にイギリス人使節は、駿府城三の丸で花火を家康に披露したのだとか。
この花火も家康にしてみれば、軍事的な活用ができるわけで、三河・遠州が花火の産地であることも単なる偶然ではありません。