静岡県下田市3丁目、下田港の稲生沢川河口、ペリー上陸記念公園に立つのが、ペリー艦隊来航記念碑。嘉永7年3月21日(1854年4月18日)、ポーハタン号に乗船したマシュー・ペリー提督は、下田港に入港。ペリー提督の胸像、アメリカ海軍から寄贈された錨が飾られています。
ペリーが残した大きな足跡を顕彰した胸像などが並ぶ
ペリーは、下田来航・上陸の前年、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に4隻の軍艦(サスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマス)で浦賀に来航し、開国(日本とアメリカの友好と通商、アメリカ船への石炭と食料の供給、難破民の保護)を要求するフィルモア・アメリカ合衆国大統領の国書を幕府に届けますが、幕府は回答を延期。
嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーは軍艦9隻を率い、再び浦賀に来航、江戸湾へ入港し(9隻が江戸湾に揃うのは旧暦2月21日)、武力を背景に開国を迫り、ついに嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、武蔵国横浜村(現・横浜市中区)で、日米和親条約(神奈川条約)の締結にこぎつけます。
日米和親条約(神奈川条約)では、下田・箱館(はこだて)2港の開港、漂流民の救助と撫恤(ぶじゅつ=慈しむこと)、開港場での必需品提供と外人遊歩区域の設定、アメリカへの最恵国待遇、調印から18ヶ月以後における下田への外交官派遣の許可など12条が定められますが、ペリーはすぐに下田へと向かったのです。
江戸湾に入ったペリー艦隊9隻のうち、サスケハナは中国へ、サラトガは本国へ条約を携えて帰ったため、下田には7隻が来航しています。
ペリー艦隊の下田滞在は70日を数え、そのうち1ヶ月は翌年3月開港となる箱館の調査に費やしています。
非公式ながら、3月24日には上陸し、了仙寺で饗応が行なわれたため、幕府は下田奉行に伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)を任命し、応接にあたらせています。
5月13日、ペリー一行は幕府側との会見にあたって祝砲を轟かせ、大砲4門を先頭に曳いて、軍楽隊演奏に合わせ300人もの水兵が、了仙寺まで行進し、下田の人々を驚かせています(この道が現在のペリーロード)。
下田港では、嘉永7年5月22日(1854年6月17日)、上陸して了仙寺本堂で、和親条約の細則を定めた全13ヶ条からなる下田条約を締結、5月25日に条約書の交換が行なわれ、目的を果たしたペリー艦隊は6月1日帰国のため、下田港を出港しています。
大役を担ったペリーは、帰国後、1857年に海軍を退役し、『ペリー艦隊日本遠征記』(Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)の執筆に尽力、1858年3月4日ニューヨークで死去(63歳)しています。
下田来航日(旧暦) | 艦名 | 艦種 | 積載量 | 責任者 |
3月18日 | サウサンプトン | 帆走補給艦 | 567t | ボイル大尉 |
3月18日 | サプライ | 帆走補給艦 | 547t | シンクレア大尉 |
3月20日 | レキシントン | 帆走補給艦 | 691t | グラソン大尉 |
3月20日 | バンダリア | 帆走スループ | 700t | ホープ中佐 |
3月21日 | ポーハタン(ペリー提督乗船) | 蒸気外輪フリゲート | 2415t | マックラニー大佐 |
3月21日 | ミシシッピー | 蒸気外輪フリゲート | 1692t | リー中佐 |
4月6日 | マセドニアン | 帆走フリゲート | 1341t | アボット大佐 |
ペリー艦隊来航記念碑 | |
名称 | ペリー艦隊来航記念碑/ぺりーかんたいらいこうきねんひ |
所在地 | 静岡県下田市3-6-6 |
関連HP | 下田市公式ホームページ |
電車・バスで | 伊豆急下田駅から徒歩20分 |
ドライブで | 西湘バイパス石橋ICから約90km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 下田市観光交流課 TEL:0558-22-3913 |
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