秋葉総本殿可睡斎
静岡県袋井市の郊外にあり、室町初期に開かれた曹洞宗の巨刹で遠州三山(油山寺、秋葉総本殿可睡斎、法多山尊永寺)のひとつに数えられる名刹。徳川家康ゆかりの寺で、可睡斎という名は、家康の前で住職が居眠りをしたっというエピソード…
静岡県袋井市の郊外にあり、室町初期に開かれた曹洞宗の巨刹で遠州三山(油山寺、秋葉総本殿可睡斎、法多山尊永寺)のひとつに数えられる名刹。徳川家康ゆかりの寺で、可睡斎という名は、家康の前で住職が居眠りをしたっというエピソード…
全国に散らばる1300余りの浅間神社の総本宮で、世界遺産富士山(「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」)の構成資産の中核的な存在。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと=浅間大神)。富士山自体がご神体で、山頂に奥宮が…
世界遺産「富士山‐信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の富士山本宮浅間大社。徳川家康造営の社殿が残されていますが楼門もそのひとつ。2階建て入母屋造り(いりもやづくり)で、正面と両脇に扉が付いています。さらに楼門の左右には慶…
慶長9年(1604年)、徳川家康が関ヶ原合戦の戦勝のお礼、徳川幕府の安泰を祈願して造営した社殿のひとつが本殿。「浅間造り」(せんげんづくり)という浅間大社独自の造りで、2階建ての楼閣造りになっています。1階は5間4面葺卸…
遠州地方の民話で知られる芋堀長者の観音堂建立伝承がある古刹が浜松市中区の鴨江寺(鴨江観音)。平安時代には支院300を数える名刹となり、南北朝時代には南朝方・後醍醐天皇の綸旨を受け鴨江寺城となって足利軍・斯波氏の攻撃を受け…
創祀は仁徳天皇の御代という浜松市街にある古社で『延喜式神名帳』にある蛭田(ひるた)郷許部(こべ=現・浜松市中区小沢渡町)にあった許部神社(こべじんじゃ)がこの浜松八幡宮なのだとか。しかもこの浜松八幡宮の松が、浜松という地…
徳川家康の正室・築山御前(つきやまごぜん=瀬名姫)が、徳川家康の命により、家康の家臣・野中重政に殺害されたのは、天正7年(1579年)8月29日。野中重政が刀を洗ったといわれる池があったのは、浜松医療センターが建つあたり…
応永12年(1405年)、長安坊がこの地に草庵を構えたのが始まりという浜松市天竜区二俣町にある古刹。戦国時代さなかの天正7年(1579年)9月25日、徳川家康の長男・松平信康は、妻である徳姫(織田信長の娘)に武田方に内通…
静岡県浜松市天竜区二俣町、天竜川と二俣川に挟まれた文字通りの二俣の要害に建つ中世の山城が二俣城。遠州二俣は信濃国(長野県)側から見れば遠州の入口で、舟運の拠点となる場所。戦国時代の初め、平地に笹岡古城を今川氏が築いたのが…
建徳2年(1371年)、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ/後醍醐天皇の皇子=円明大師)が開いた東海屈指の名刹。山号は深奥山(じんのうざん)。方広萬寿禅寺が正式な寺の名ですが方広寺・奥山半僧坊(地元では「半僧坊」)と通称…
徳川家康は、元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で没すると、密かに久能山に運ばれ、通夜も行なわれずに埋葬されています。遺言で、久能山に遺体を納め、増上寺で葬儀を行なったら、一周忌の後に日光山に小さな堂を建て、…
元和2年12月(1617年1月)、久能山に創建された東照社(久能山東照社)。徳川家康の遺言で、久能山に埋葬され、東照大権現の神号が贈られた家康。久能山東照宮の拝殿・石の間・本殿は、創建時のもので国宝に指定されています。寛…
日本平からロープウェイで5分の久能山駅から徒歩1分の久能山山頂に鎮座するのが久能山東照宮。1616(元和2)年4月17日、75歳の徳川家康が駿府城で没した際、その遺言により、山上にあった久能城を廃城にし、2代将軍・秀忠の…
上洛を狙う武田信玄に対して、織田信長と同盟を結び、遠州へと進出した徳川家康が激突した三方ヶ原の戦い。この戦で徳川家康は大敗を喫して、命からがら浜松城へと逃げ帰りますが、撤退する徳川軍の中で、最後尾となる殿(しんがり)を買…
明治19年、引間城跡に旧幕臣・井上延陵(井上八郎)が創建したのが元城町東照宮(浜松東照宮)。徳川家康立身出世の地に家康を祀る東照宮がないのはどうしたことかと考えた井上延陵は、引間城跡に東照宮を建立。境内には徳川家康は31…
元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)、徳川家康は三方ヶ原の戦いから命からがら浜松城へと逃げ帰ります。城内にあった松の木陰で休み、鎧を脱いで松に掛けたことから鎧掛け松と呼ばれています。
三方ヶ原(みかたがはら)は、浜松にある台地。上洛を目ざす武田信玄軍2万7000と阻止しようとする徳川家康軍1万1000(うち信長軍3000)が浜松にある三方ヶ原台地で激突したのが1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦い。徳川…
三方ヶ原の合戦で大敗した徳川軍が、浜松城に逃げ帰ったその夜、一矢報いようと武田軍に夜襲をかけたのが犀ヶ崖の戦い。犀ヶ崖資料館はもともと三方ヶ原合戦での徳川軍2000人、武田軍200人という戦死者を祀った宗円堂が前身。三方…