元城町東照宮(引間城)

明治19年、引間城跡に旧幕臣・井上延陵(井上八郎)が創建したのが元城町東照宮(浜松東照宮)。徳川家康立身出世の地に家康を祀る東照宮がないのはどうしたことかと考えた井上延陵は、引間城跡に東照宮を建立。境内には徳川家康は31歳の壮年像、豊臣秀吉16歳の少年像が立っており、出世にご利益があるパワースポットとしても注目。

明治維新後の浜松復興に尽力した井上延陵が創建

井上延陵は、徳川幕府の崩壊後、浜松城代として赴任し、上新町から浜名湖に通じる運河を造成、さらに失業した士族の対策として三方原に茶園・百里園を拓いています。

松平家康(徳川家康)が浜松城を築城する以前は、今川方の飯尾家が守る引間城(曳馬城、引馬城)がこの地の領主の城でした。
今川家としての引間城創建は、飯尾賢連(いいおかたつら)で1514(永正11)年。

1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、徳川家康は信長と清洲同盟を結び、東三河の拠点である吉田城の奪取、遠州攻略に乗り出します。

そんな時、飯尾家第4代の飯尾連龍(いいおつらたつ)は、家康と内通した罪で今川氏真に駿府で殺害されてしまいます。
その妻であるお田鶴の方が城主となりますが、1568(永禄11)年、今川領分割を武田信玄と約束した家康は、信玄の駿河進行と時を同じくして遠州に進軍。
引間城に籠もるお田鶴の方は家康からの和睦提案を拒み、討ち死に(椿姫観音として祀られています)。

家康は武田への防備もあって、1570(元亀元)年、引間城を取り込む形の城割で浜松城を築城、長子の松平信康に岡崎城を譲り駿遠経営に乗り出します。
引間城(曳馬城、引馬城)の「馬を引く」という名前は、負け戦を意味するため縁起が悪いということで、地名を「浜松」と改めています。

まさに家康ゆかりの地ですが、豊臣秀吉が訪れた城でもあるため、ふたりの武将を天下人へと導いた場所ということで、、「出世神社」と呼ばれています。

秀吉も16歳の時、浜松で暮らした!?
『太閤素生記』によれば、豊臣秀吉は織田信長に仕える前、16歳前後の3年間、引間城主の配下で、頭陀寺城(ずだじじょう=現・浜松市南区頭陀寺町にあった中世の城)城主の松下之綱(まつしたゆきつな=松下加兵衛/頭陀寺城の城主)に仕官し浜松で暮らしたと説明されています。
その時に、引間城を訪れていると推測されています。
秀吉にかかわるという「鎌研池」(かまとぎいけ)が頭陀寺城跡近くに残されています。

 

元城町東照宮(引間城)
名称 元城町東照宮(引間城)/もとしろまちとうしょうぐう(ひきまじょう)
所在地 静岡県浜松市中区元城町111-2
関連HP 浜松市公式ホームページ
電車・バスで JR浜松駅バスターミナルから市役所経由遠鉄バスで6分、浜松城公園入口下車、徒歩すぐ。または、遠州鉄道鉄道線遠州病院駅から徒歩13分
ドライブで 東名高速道路三方原スマートICから約5km
駐車場 浜松城公園駐車場(55台/1時間30分まで無料、以降有料)
問い合わせ 浜松市企画調整部広聴広報課 TEL:053-457-2021
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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