静岡県静岡市葵区黒金町、JR静岡駅北口に立つのが、竹千代君・今川義元公像。竹千代は、徳川家康の幼名で、8歳〜19歳の間、駿府の今川義元の元で、人質生活を送っていますが、その時の姿を表した像を静岡駅北口広場に平成21年3月19日に除幕、設置したもの。
駿府で今川義元の人質として過ごした竹千代の像
静岡駅北口広場は、政令指定都市静岡市の玄関口の整備を目的に平成20年9月に完成。
徳川家康の駿府城入城400年を記念して行なわれた『大御所四百年祭』の一環で、静岡市内には幼少期、壮年期、晩年の大御所時代(駿府城公園・駿府城本丸跡)。
像を制作したのは、駿府城公園の徳川家康公之像を制作した堤達男の子、彫刻家・堤直美。
少年時代は「仕事を手伝わされるので、アトリエに近づかなかった」(堤直美)ということですが、同じ静岡駅北口広場に「大御所家康公駿府入城四百年祭」の記念事業の一環として同時に設置された壮年期の「徳川家康公之像」も堤直美制作で、今では親子で徳川家康の像3体を後世に残しています。
西伊豆出身の堤親子に3体を委ねたことで、幼少期、壮年期、晩年の大御所時代が一貫する像になっているのです。
文化都市・駿府で過ごした徳川家康にはメリットもあった!
徳川家康は3歳で母と生き別れして、織田家の人質に、そして父親とは8歳で死別するという苦難の幼少期で、駿府に来た当時も病弱であったために祖母(母・於大の方の母親、源応尼、後の華陽院)が付き添って面倒をみています。
今川家の軍師でもあった臨済寺の太原雪斎(たいげんせっさい)の勉学指導を受けるなど、当時、「戦国の雄」として君臨した今川義元の元で、人質というよりも、政務見習いといった感じだったと推測できます。
しかも駿府は周防(すおう)の大内氏の山口、北陸・越前の朝倉氏の一条谷とともに、戦国三大文化都市といえる地で、京の公家文化も色濃く漂っていました。
弘治元年(1555年)、今川義元は、14歳になった竹千代に「元」の一字を与えて、松平次郎三郎元信と名乗らせて元服させています。
さらに弘治3年(1557年)、元信は蔵人元康と改名、16歳で瀬名姫(今川義元の姪)と政略結婚し、直後に西三河攻めを今川義元に命じられ初陣を飾っています。
桶狭間で今川義元が織田信長に討たれ、元康(家康)は、ようやく家臣の待つ岡崎城へと戻っています。
再び駿府の地に入るのは、本能寺の変で織田信長が没した後、天正14年(1586年)、秀吉と距離をおいて、浜松城から駿府城へと移った時です(家康45歳)。
防衛的な意味合いが大きかった居城の移転ですが、駿府を気に入っていたということも理由のひとつでしょう。
竹千代君・今川義元公像 | |
名称 | 竹千代君・今川義元公像/たけちよぎみ・いまがわよしもとこうぞう |
所在地 | 静岡県静岡市葵区黒金町地内・JR静岡駅北口駅前広場内 |
関連HP | 静岡市公式ホームページ |
電車・バスで | JR静岡駅から徒歩3分 |
ドライブで | 東名高速道路静岡ICから約4km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 静岡市市街地整備課 TEL:054-221-1413 |
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