日本国内には例の少ない「円郭式城郭」の田中城。
藤枝市にあるこの城、江戸時代には田中藩の政庁としても機能しました。
田中藩という藩名も聞き慣れなければ、田中城という城の存在もあまり知られていませんが、実は戦国時代にはまさに群雄割拠の城でした。
そもそも田中城を築いたのは、なんと甲斐(現・山梨県)の武田信玄(TOPの画像)です。
もともとは武田信玄が築城
元亀元年(1570)正月、今川氏家臣・長谷川正長の守る徳之一色城を武田信玄が攻略。
配下の馬場信房(馬場信春=武田四天王のひとり)に命じて武田流の馬出曲輪を有する城を築き、田中城と命名。
江尻城(現在の静岡市清水区江尻町)、清水城(清水袋城/現在の静岡市清水区本町)、小山城(こやまじょう/現在の静岡県榛原郡吉田町)、諏訪原城(現在の静岡県島田市金谷/国の史跡)を築いたのも馬場信房で、武田氏の駿河侵攻後、多くの支城を築いています。
「甲州流築城法の粋を集めた名城」は、信玄が山本勘助を付けて学ばせた技術(『甲陽軍艦』)によるとされています(『甲陽軍艦』に関しては、歴史研究の史料としての価値が否定されています)。
武田氏の駿河侵攻の拠点で、難攻不落を誇った田中城も天正10年(1582年)2月20日に、徳川軍の総攻撃を受けて開城しています。
本能寺の変直前に織田信長が逗留
信玄が築いた田中城には信長も逗留しています。
開城から間もない天正10年(1582年)4月14日には、織田信長が田中城に逗留(『当代記』/『信長公記』を中心に他の記録資料を再編した二次史料で、信憑性に欠ける部分もあります)。
天正10年3月11日に武田家滅亡(天目山で自刃)。3月14日に信長は勝頼らの首級を実検。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に逗留。
4月10日、信長は富士山見物出立し、家康の手厚い接待を受けます。4月12日、駿河興国寺城(静岡県沼津市根古屋/国の史跡)で北条氏政による接待。江尻城(静岡市清水区江尻町/本丸跡=清水江尻小学校)を経て4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城。浜松からは船で吉田城(現・愛知県豊橋市)に至り、4月19日に清洲城に入城。4月21日に安土城へ帰城。そして、この「富士山旅行」を終えた後、6月2日に本能寺の変が勃発しています。
小田原攻めの直前に豊臣秀吉逗留
信長没後は、豊臣秀吉も田中城に逗留。
天正18年(1590年)3月18日には豊臣秀吉が田中城に逗留(『家忠日記』/松平家忠の日記)しています。
秀吉は、小田原攻めの途中で、3月27日には沼津に到着し、3月29日に進撃を開始し、山中城を攻撃しています。
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