旧天城トンネル

旧天城トンネルの正式名は天城山隧道。国道の新天城トンネルと区別するため「旧天城トンネル」と呼ばれています。平成13年にトンネルとしては初めて国の重要文化財に指定された伊豆・天城山中にある隧道(トンネル)です。当時のお金で10万3000円を投入し、12人の犠牲者を出して明治37年に完成。伊豆半島ジオパークのジオサイトにもなっています。 日本初の重要文化財になった石造道路トンネル 嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約により、南伊豆・下田港は箱館(函館)港と並び、日本で最初に開港された港となりました。 下田港の開港後、天城峠を越える下田街道は東海道・三島宿と下田港を結ぶ重要なルートとなっていました。 大仁(おおひと)の吉田石を使い、切り石で組まれた全長445.5mの隧道(旧天城トンネル)は、石造道路トンネルとしては、日本最長。 平成13年に道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されています。 川端康成『伊豆の踊子』は、19歳の時の実体験がベース <div class="su-row"> <div class="su-column su-column-size-"1-2""><div class="su-column-inner su-u-clearfix su-u-trim"></div></div> <div class="su-column su-column-size-"1-2""><div class="su-column-inner su-u-clearfix su-u-trim"></div></div> </div> 一高入学の翌年、19歳の川端康成が旅芸人の一行とこの天城山隧道(旧天城トンネル)を抜けたのは大正7年11月のこと。 10月30日に旧制第一高校寄宿舎を出発、翌日は修善寺温泉に泊まり、11月1日・2日に湯ヶ島温泉「湯本館」泊。 徒歩で天城山隧道(旧天城トンネル)を越え、途中、旅芸人一座と道連れになります。 「踊子歩道」の名でハイキングコースとして整備されている道は、川端康成の小説『伊豆の踊子』で、踊り子一行が歩いた旧下田街道を含む道。 『伊豆の踊子』では、主人公は一高の学生で20歳。つまりは川端康成自身だったのです。 幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と出会い、一座を率いる時田かほる(踊子の兄)旅の後も文通がありました(川端康成が『伊豆の踊子』を雑誌『文藝時代』に掲載したのは、旅の7年後、大正15年1月号)。 小説の舞台、浄蓮の滝から二階滝までを歩くプランなら、10.2km、3時間5分と手頃。 コースのハイライトはこの旧天城トンネル。 小説のなかで、「道がつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ」と書き出された部分で、当時の面影がそのままに残されています。 車利用なら帰路はバスで浄蓮の滝に戻ることも可能です。 旧天城トンネルを含む旧道は天城路として「日本の道100選」にも選定。 <div class="su-box su-box-style-default" id="" style="border-color:"#252108";border-radius:3px"><div class="su-box-title" style="background-color:"#252108";color:#FFFFFF;border-top-left-radius:1px;border-top-right-radius:1px">"</div><div class="su-box-content su-u-clearfix su-u-trim" style="border-bottom-left-radius:1px;border-bottom-right-radius:1px"> 映画『有りがたうさん』(昭和11年・上原謙主演)ロケ地。 映画『伊豆の踊子』は、田中絹代・大日方傳(昭和8年/松竹)、美空ひばり・石濱朗(昭和29年・松竹)、鰐淵晴子・津川雅彦(昭和35年・松竹)、吉永小百合・高橋英樹(昭和38年・日活)、内藤洋子・黒沢年男(昭和42年・東宝)、山口百恵・三浦友和(昭和49年・東宝)とこれまで6回制作されています。 </div></div> 《幸江さんに伝言》 浄蓮の滝と相互リンクをお願いします

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