静岡県浜松市天竜区二俣町、天竜川と二俣川に挟まれた文字通りの二俣の要害に建つ中世の山城が二俣城。遠州二俣は信濃国(長野県)側から見れば遠州の入口で、舟運の拠点となる場所。戦国時代の初め、平地に笹岡古城を今川氏が築いたのが最初で、今川氏の家臣である松井宗信(まついむねのぶ)が山城を築いたと推測されています。
徳川と武田が攻防を繰り返した遠州の要となる城
永禄3年5月19日、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で今川義元が織田信長に討ち取られ(二俣城主・松井宗信も討ち死に)、今川氏真が武田信玄と徳川家康による駿河侵攻により敗れた後(今川氏滅亡後)は、後を継いだ松井宗恒(まついむねつね)は、甲斐の武田信玄と結びますが、永禄11年(1568年)12月、徳川家康に攻撃され、降伏し家康に服属。
その後、浜松城と高天神城(たかてんじんじょう/現・掛川市)のちょうど中間地点に位置する二俣城は、家康と信玄の攻防の地となります。
武田軍にとっては、補給路を確保し、徳川軍を分断することになるため、両軍にとって二俣城の確保は、遠州侵攻にとっては欠かせない城となったのです。
武田軍の遠州侵入が迫ると家康は譜代の家臣・中根正照(なかねまさてる)を二股城主として防備を固めます。
元亀3年(1572年)10月16日、武田勝頼軍は、天竜川に大量の筏(いかだ)を流して水の手櫓を破壊し、ついに二俣城を落城し、降伏・開城(二俣城の戦い)。
さらに武田軍は西進し、12月22日の三方原の合戦となり、家康は歴史的な大敗を喫すことになります。
ただし、二俣城攻略によって、武田氏と徳川氏の優劣は決定的なものとなり、奥山氏、飯尾氏など遠州の地侍は武田軍(信玄の配下)へと流れています。
天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を破ると、その勢いで家康は二俣城を奪還。
さらに天正7年(1579年)には、家康の長男・松平信康が武田方に内通した疑いをかけられて、二俣城で切腹させられています。
信康の遺骸は清瀧寺に埋葬されています。
城跡は新緑、紅葉の名所としても注目
豊臣秀吉による徳川家康の関東移封に伴い、天正18年(1590年)、豊臣政権三中老・堀尾吉晴(ほりおよしはる)が浜松城に入城、二俣城は支城となりますが、慶長5年(1600年)、東軍に与した堀尾氏の出雲国富田への加増移封(後に松江城を建造)で廃城となっています。
現在は城山公園として整備され、遺構としては、天守台跡、野面積みの石垣や土塁が現存しています。
大手口は急な坂道となっており、二俣城を攻略した武田勝頼軍も大手口の坂道で、頭上から射掛けられ、雨のように降り注ぐ矢に苦戦しています。
北曲輪の旭ヶ丘神社下の駐車場まで車で入ることができますが、1200人の将兵で、2万を超える武田軍を迎え撃ったそんな難攻不落の城の構造を、じっくりと見学を。
モミジが植栽される新緑、紅葉の名所としても有名で、例年、紅葉の見頃は、11月下旬~12月上旬頃。
天正7年8月29日に築山御前は、浜松城に入る手前の遠江国敷知郡小藪村(現・浜松市中区富塚)で殺害され、松平信康は、9月15日に二俣城で切腹(服部半蔵が介錯したとも)。
信康は、清瀧寺に葬られています。
松平信康の正室である徳姫は、織田信長の長女。
徳姫が父・信長に、築山殿と信康の罪状を訴える十二ヶ条の訴状を書き送り、これを読んだ信長が安土城に滞在中の酒井忠次(家康の忠臣)に、築山殿と松平信康の処分を命じたとされていますが、真実は未だに謎です。
家康と信康の親子対立があったとする説もありますが、徳姫は天正8年(1580年)2月20日に家康に見送られて岡崎城を出立し安土へ送り帰されています。
二俣城 | |
名称 | 二俣城/ふたまたじょう Futamata Castle Ruins |
所在地 | 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣 |
関連HP | 浜松観光コンベンションビューロー |
電車・バスで | 天竜浜名湖鉄道二俣本町駅から9分 |
ドライブで | 新東名高速道路浜松浜北ICから約4km |
駐車場 | 城山公園駐車場/無料 |
問い合わせ | 浜松市観光インフォメーションセンター TEL:053-452-1634 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |