静岡県牧之原市が、10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の側用人を経て老中に進み、いわゆる田沼時代を築いた田沼意次(たぬまおきつぐ)ゆかりの地であることはあまり知られていません。相良(さがら)地区に築いた相良城は、「田沼意次の出世城」ということになります。
相良城本丸跡には田沼意次立像が立つ

時代劇では庶民の敵、賄賂を受け取る老中のように描かれることもありますが、池波正太郎の『剣客商売』では、反田沼派の松平定信との対立を描きつつ、悪くは描かれていません。
相良藩主となった田沼意次は、11年の歳月をかけて相良城を築城、三重櫓の天守を建てています。
そして東海道藤枝宿から相良城に至る田沼街道(相良街道)を整備、相良湊(現・相良港)の整備、防火対策(屋根を瓦に変更)への助成など、インフラ整備に努めました。
製塩業、養蚕などの奨励と、殖産興業にも尽力、それでいて、年貢は抑えたので、領民からは名君と親しまれたのです。
池波正太郎の『剣客商売』は、賄賂政治家のイメージが強かった田沼意次の印象を一変させたといわれていますが、地元相良での伝承も、名君以外のなにものでもありません。
歴史学者の大石慎三郎(おおいししんざぶろう)は、平成3年『田沼意次の時代』(岩波書店)を著していますが、以降は清濁併せ持った実力者というイメージに変わっています。
残念ながら相良城の面影はさほど残されていませんが、本丸跡には牧之原市役所相良庁舎、「牧之原市史料館」が建ち、「牧之原市史料館」では相良藩の歴史と田沼意次の治世を詳しく解説しています。
二の丸跡は牧之原市立相良小学校、三の丸跡は静岡県立相良高等学校という状況。
東西500m、南北450mで、天守までそびえた近世の城なのに、遺構がほとんどないのは、田沼意次失脚後、ライバルの松平定信がことごとく破却したから。
相良城を徹底的に破壊するのと同時に、賄賂政治かというレッテルを貼ったと推測できるのです
実際には天明年間の飢饉、浅間山の大噴火などの飢饉や天災が災いし、それを反田沼陣営が活用したというのが失脚の理由だったというのが通説です。
本丸跡に立つ田沼意次立像は田沼意次公生誕300周年記念事業で募金を集め、令和3年に建立されたもの。
「牧之原市史料館」で田沼時代の真相に迫ろう!

さてさて、三重櫓の天守までそびえた相良城ですが、その築城資金は、どこから調達したのでしょう。
実は領民に御用金を命じたり、商人から多額の借金をしているわけではありません。
もともと陣屋だったものを本丸、二の丸、三の丸と大規模に拡張、さらに港湾整備まで行なっているので、莫大な費用が必要だったことがわかります。
寄進者を記載した『勧化帳』には江戸の有力商人たちの名前がズラリと並んでいるので、そうした有力商人たちからの寄進(上納金)で賄われたものだと推測できます。
それを賄賂と見なすのか、はたまた江戸時代の常識、現代風にいえば企業献金とするのか、これは意見が分かれるところでしょう。
田沼意次は江戸から離れることは少ない、実際に相良に出向くことは少なかったようですが、老後の生活、子孫の居城として城と城下町を整備、まさに牧之原市では「郷土の偉人」として今も尊崇されていることは間違いありません。
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で、渡辺謙が大いに存在感を放っているのが老中・田沼意次。
大河ドラマでも近年の研究成果を踏まえて、幕藩体制の改革者としての側面を強く打ち出していますが、「牧之原市史料館」の展示を見ると、さらにいっそう「田沼時代」の真相に迫ることができるでしょう。
撮影/大石正英
| 【田沼意次の真実を知る!】田沼意次の出世城、相良城を探訪! | |
| 名称 | 相良城本丸跡/さがらじょうほんまるあと |
| 所在地 | 静岡県牧之原市相良275 |
| 関連HP | 牧之原市公式ホームページ |
| ドライブで | 東名高速道路相良牧之原ICから約11km |
| 駐車場 | 牧之原市役所相良庁舎駐車場を利用 |
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