静岡市街の中心地、駿府城公園は、将軍職を徳川秀忠に譲り大御所時代の駿府城の跡だとされています。全国の大名に命じて(天下普請)築城させたのが現在の駿府城です。それは歴史的事実なのですが、駿府城の天守台跡の発掘調査で、豊臣秀吉が築城を命じた「駿府城」の天守台が発見されたのです。
駿府城公園で秀吉築城の「幻の城」発見!
もともとは今川義元など今川家の館があった場所に、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、駿河(現在の静岡県東部)を領有した徳川家康が、駿河の府中(駿府)の城として築いたのが駿府城の始まり。
天正18年(1590年)の初冬、豊臣秀吉は小田原攻め(小田原征伐)を行ないますが、その時、水軍を動員して清水湊(現在の清水港)に大量の物資を運んで勝利を収めますが、その直後に家康を関東に封じて、駿府城には秀吉の家臣・中村一氏(なかむらかずうじ)が入城します。
その際、秀吉は絢爛豪華な天守を築城したと推測できるのです。
静岡城の天守発掘調査で、なんと、秀吉が京に築いた聚楽第(じゅらくてい/天正15年に完成)と酷似した大量の金箔瓦330枚、そして自然石を野面積みした天守台石垣が新たに出土し、豊臣秀吉が築かせた天守台跡と確認されたのです。
秀吉の命により駿府から江戸に移った家康を監視、威嚇する役割を担ったとも推測できるのですが、徳川家康の天下普請による駿府城改修の際には、この天守台を覆い隠すようにして天守を構えたのです。
しかもこれまで中村一氏時代の駿府城については記録もまったく残されておらず、遺構も発見されていなかったことからまさに「幻の城」だったのです。
つまり、天正13年(1585年)に家康築城の家康5ヶ国統治時代の駿府城、その上に(あるいはそれを破却して)秀吉時代の駿府城が、さらに大坂冬の陣、大坂夏の陣の前に家康が築いた日本最大の天守台と、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての激動の時代を背景に、駿府城変遷のドラマが隠されていたのです。
秀吉が江戸に向かって威嚇した天守、そしてそれを覆い隠して大坂を睨みを利かした家康の大天守。
当時の最大級、最先端の城が駿府に築かれたことが、発掘調査で明らかになりました(駿府城跡天守台発掘調査は2016年8月〜2020年2月、駿府城公園北西部にて8:30~17:15に実施)。
豊臣秀吉が築城した「駿府城」とは!? | |
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