城郭が円形!? 田中城に登城

城の全体設計、つまりはどこにどう曲輪(くるわ=郭)を配置するかというのは、戦国時代を生き抜く城主にとっては最重要課題。
地形を活かして、独特な城郭が生まれています。
同心円状に堀や土塁を何重にも重ねて配置する縄張(なわばり=曲輪やこれに伴う堀や石垣、門の位置など城全体の設計)が円郭式縄張。
その日本を代表する典型的な例が、駿河の田中城(現・藤枝市)です。

日本で唯一! 完璧な円郭式縄張の田中城

まずは、城の全体設計(縄張)にはどんな種類があるのか、ざっと予習をしておきましょう。

連郭式縄張=本丸を中心として直線上に曲輪を配置するスタイル。⇒備中松山城、盛岡城、伊予松山城
梯郭式縄張=本丸の虎口に二ノ丸、二ノ丸の虎口に三ノ丸というように、馬出状に曲輪を連ねるスタイル。⇒広島城・岡山城
輪郭式縄張=本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が順に周囲を囲んでいくスタイル。⇒駿府城
並郭式縄張=本丸と二ノ丸(それ以外の場合あり)が並行に配置され、その周囲を三ノ丸が取り囲むスタイル。⇒大垣城、島原城、大分城
渦郭式縄張=本丸を中心として二ノ丸、三ノ丸を渦巻き状に配置するスタイル⇒江戸城、姫路城、丸亀城
階郭式縄張=地形を活かし曲輪群を階段状に配置するスタイル⇒姫路城、丸亀城、熊本城
円郭式縄張=同心円状に堀や土塁を何重にも重ねて配置するユニークなスタイル⇒田中城

田中城の場合は、本丸を中心に、直径約600mの同心円状に4重に堀と土塁を巡らす珍しい構造です。
駿府城のような輪郭式は、ほかにも山形城、松本城、大坂城などポピュラーなのですが、空から眺めると円形になるような城郭は、日本においては大変珍しいスタイルです。
 
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田中城は戦国動乱の駿河にあった実戦的な城

こんなユニークな城を誰が考えたかといえば、時は、天文6年(1537年)まで遡ります。
土豪・一色氏が今川氏の命を受け徳之一色城を築城します(この城は円形ではありません)。
天文6年といえば、甲斐国の武田信虎(信玄の父)の長女(於豊=信玄の姉)が今川義元に嫁いだ年で、甲駿同盟が設立した年です。
甲駿同盟に対してもともと武田家と敵対関係にあり、今川家と駿相同盟を結んでいた相模国・北条氏綱が激怒。駿河国に侵攻して興津辺りまでを焼き払うという河東の乱(かとうのらん)が起こます。これにより富士川(河)以東(東)は、北条家の支配下になります。
つまり、築城当初は、西の防備はもちろん、東の相模を睨む城だったと推測できます。
 

田中城三日月堀跡
田中城の三日月堀跡。実は信玄の考えた馬出曲輪だった!

円形の城郭にしたのは智将・武田信玄

後に甲州・駿河・相模の三国同盟の締結で力の均衡が保たれたかに見えましたが、信玄の台頭で激動の駿河へと時代は変わります。
永禄11年(1568年)12月、武田信玄は遠江割譲を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始。田中城は駿河西部の城砦網の要として重要視されるようになります。
当時、駿河国を治める今川氏は、西に徳川・織田、北に武田の台頭で、実戦的な城づくりが急務だったのです。
永禄13年(1570年)、田中城は武田信玄によって落とされ、この時に武田式の縄張り、つまり、現在の円郭式縄張に拡張されます。
城の設計は馬場信房が担当。馬出曲輪(うまだしくるわ)が6ヶ所設けられているのも武田流の縄張。つまり、田中城の縄張は「武田スタイル」ともいえるわけなのです。
城が完成すると信玄は、山県昌景を城主に、さらに板垣信安を城主にして浜松城の家康に対峙します。
 

武田信玄
円形の縄張の城を築き田中城と名付けた武田信玄。まさに田んぼの中の城だった!

 

徳川の治世になってもっとも外側の堀を追加

そして、織田・徳川が天正3年(1575年)に長篠で武田軍が撃破されて以降は、武田軍の最後の守りとして機能します。
それでも天正10年(1582年)、ついに徳川勢の攻撃を受け開城します。
田中城を徳川家康が攻め始めたのが天正3年(1575年)。その後何度も攻撃しては失敗をくり返し、やっと開城したのが天正10年(1582年)ですから、攻略に足かけ8年。まさに「難攻不落の田中城」だったわけです。
それ以降は、徳川家の城として機能し、藩政時代(徳川幕府の時代)には田中藩の政庁となっています。
一国一城令時代以降にも藩・城として生き延びたのは、東海道の要衝で、駿府を守る最後の拠点として重要視されたからに違いありません。
徳川の治世になってからもっとも外側の堀を追加して築いていることもその現れです。
 

徳川家康
8年かけて田中城を攻略、駿河を支配した徳川家康
 

城の本丸は小学校になっている

円形だったのは、周囲が湿地帯ということが大きな理由だったようです。
堀を4重に周囲に配し、二ノ丸、三ノ丸外に馬出曲輪(三日月堀)が6ヶ所設けられています。
六間川の水を物資運搬の舟運や城濠の増水用に利用しました。
姥ヶ池の浄水を引き入れ城内に水を供給しました。
本丸と二ノ丸跡の一画には西益津小学校が、三ノ丸には西益津中学校が建設され、残念ながら往時の雰囲気はほとんど残されていません。

本丸には天守はなく2層2階の物見櫓が石垣の上に建っていました。
この本丸櫓は、下屋敷のあった場所につくられた「史跡田中城下屋敷」に移築保存されています。
 

西益津小学校
田中城本丸跡に建つ西益津小学校
西益津小学校に築かれた田中城を模した庭園
西益津小学校に築かれた田中城を模した庭園

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