本多肥後守忠真の碑

上洛を狙う武田信玄に対して、織田信長と同盟を結び、遠州へと進出した徳川家康が激突した三方ヶ原の戦い。この戦で徳川家康は大敗を喫して、命からがら浜松城へと逃げ帰りますが、撤退する徳川軍の中で、最後尾となる殿(しんがり)を買って出て、討死したのが本多肥後守忠真(本多忠真)。 犀ヶ崖資料館の敷地内に顕彰した碑が立っています

家康を守って討ち死にした本多忠真の顕彰した石碑

本多忠真の末裔となる第17代・本多子爵が明治24年に建立した石碑。
石碑には、徳川宗家16代当主・徳川家達(いえさと)によって書かれたとされる題字と、本多家が代々、松平家と徳川家に仕えたこと、本多忠真が戦で数々の功績を残したといわれることが刻まれています。

本多忠真
本多忠真は、三河の松平氏時代からの家康の家臣。
父・本多忠豊は、徳川四天王・本多忠勝(ほんだただかつ)の祖父。
本多忠真は、子の本多菊丸に「主君家康を護るように」と言い残し、道の両側に旗指物を突き刺して「ここから後へは一歩も退かぬ」と、家康を追走する武田軍の中に刀一本で斬り込んで討ち死に。
享年39。
浜松城に無事退却した菊丸は、父の遺骸を三河に葬った後、出家しています。

本多忠真の父である本多忠豊も、1545(天文14)年、三河安祥城(現・愛知県安城市)をめぐる織田信秀との戦い(第三次安祥合戦)で敗北した松平広忠(徳川家康の父)を逃がすため、殿を務めて討ち死にしています。
つまり、親子して殿を務めた忠臣です。


 

本多肥後守忠真の碑
名称 本多肥後守忠真の碑/ほんだひごのかみただざねのひ
所在地 静岡県浜松市中区鹿谷町25-10地先
電車・バスで JR浜松駅バスターミナルから遠鉄バスで9分、さいが崖下車、徒歩すぐ。または、遠州鉄道鉄道線遠州病院駅から徒歩25分
ドライブで 東名高速道路三方原スマートICから約6.5km。浜松西ICから約7.7km
駐車場 犀ヶ崖資料館駐車場を利用
問い合わせ 犀ヶ崖資料館 TEL:053-472-8383/FAX:053-472-8383
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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