徳川秀忠公誕生の井戸
徳川家康の第3子で、徳川第2代将軍(在職1605年~1623年)となった徳川秀忠(幼名・長丸)の産湯の井戸が浜松市街にある徳川秀忠公誕生の井戸。現在は遠州鉄道遠州病院駅前の交番裏手にありますが、本来の場所は50mほど西。…
徳川家康の第3子で、徳川第2代将軍(在職1605年~1623年)となった徳川秀忠(幼名・長丸)の産湯の井戸が浜松市街にある徳川秀忠公誕生の井戸。現在は遠州鉄道遠州病院駅前の交番裏手にありますが、本来の場所は50mほど西。…
元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)、徳川家康は三方ヶ原の戦いから命からがら浜松城へと逃げ帰ります。城内にあった松の木陰で休み、鎧を脱いで松に掛けたことから鎧掛け松と呼ばれています。
三方ヶ原(みかたがはら)は、浜松にある台地。上洛を目ざす武田信玄軍2万7000と阻止しようとする徳川家康軍1万1000(うち信長軍3000)が浜松にある三方ヶ原台地で激突したのが1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦い。徳川…
三方ヶ原の合戦で大敗した徳川軍が、浜松城に逃げ帰ったその夜、一矢報いようと武田軍に夜襲をかけたのが犀ヶ崖の戦い。犀ヶ崖資料館はもともと三方ヶ原合戦での徳川軍2000人、武田軍200人という戦死者を祀った宗円堂が前身。三方…
浜松城の北1kmの地にある渓谷城の地形が犀ヶ崖(さいががけ)。三方原台地が裂けて陥没してできた全長2km、深さ9m、幅50mの断崖の谷です。三方原の戦いで大敗北を喫し、忠臣が身代わりとなって辛くも浜松城に逃げ帰った家康が…
1570(元亀元)年、武田信玄の西侵に備えるため、徳川家康は本拠地を三河国岡崎城(現・愛知県岡崎市)から遠江国浜松荘へ移します。さらに当時の地名、曳馬という名が「馬を引く」(敗北)に通じることから浜松荘(荘園の名)に因ん…
掛川城大手門は、二層式の櫓門(やぐらもん)。平成5年の発掘調査で12ヶ所の礎石根固め石が確認され平成7年に往時の位置から50m北にずらして復元されています。棟上には鯱瓦が飾られた勇壮な建物で、観光の拠点となる市営の掛川大…
城下に時を知らせるための大太鼓が置かれた櫓で、往時には掛川城の三の丸にありました。二の丸にあった荒和布櫓(あらめやぐら)にかわって、昭和30年に太鼓櫓が移築されています。時を告げた太鼓は、掛川城御殿玄関に置かれています。
掛川城の正門にあたる大手門横で、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所だったのが大手門番所。現存する番所は、江戸時代末期に建てられたもの。この番所が東海道掛川宿から掛川城に入るルートの最初のチェックポイントとなっていま…
掛川城の二の丸にある御殿。御殿とは、藩主や藩の重役が政務を司る城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用された建物。藩政時代の御殿がそのままの姿で現存するのは非常に希少で、掛川城に登城するなら必ず立ち寄りたい場所で…
東海道の要衝を守る名城、掛川城。現在の天守は、平成6年、日本で初めて木造で復元された復元天守ですが、往時の様子を忠実に再現しています。近世城郭を築いたのは、平成18年のNHK大河ドラマ『功名が辻』の主人公・山内一豊。天下…
2024年4月5日(金)~4月7日(日)、城下町・横須賀(掛川市)で『三熊野神社大祭』。御前崎市の高松神社、掛川市入山瀬の小笠神社、掛川市大須賀のそして三熊野神社が「遠州の熊野三山」。701(大宝元)年創建という古社・三…
毎年5月5日、静岡県牧之原市で『相良凧あげ大会(相良凧初節句神事)』。相良凧(さがらたこ)は、田沼意次(たぬまおきつぐ)の城下町として知られた相良独特の凧。江戸時代中期の頃から初の男子誕生を祝って端午の節句にあげる風習が…
2017年の夏は海水浴で賑わう「さがらサンビーチ」(静岡県牧之原市相良)の初日の出をカメラマン大石正英の撮影した画像で速報します。 雲が少ない穏やかな天気で、例年通りヨットが浮かぶ初日の出です。
大海原からの初日の出と、鳥居、そして風力発電の風車群という異色のコラボが年々話題となっているのが、掛川市の国安海岸。大東温泉シートピア南側の浜辺に、掛川観光協会大東支部が年の暮れに期間限定の鳥居を設置するもの。例年1月中…
舘山寺温泉にある舘山寺では恒例の除夜の鐘、さらに新年を迎えてから遠州名物の手筒花火の奉納があります。勇壮な手筒花火で新年を多幸を祈念します。
浜名湖七福神の毘沙門天を祀るのが、遠州信貴山(えんしゅうしぎさん)。大和国(現・奈良県)の信貴山(朝護孫子寺)は聖徳太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をしたという日本最古の毘沙門天の霊刹。その分身を遷座したのが遠州信貴山です。…
文武天皇の勅願によって創建されたという真言宗の古刹、鴨江寺(かもえじ)。浜松屈指のパワースポットとして、正月には「お鴨江まいり」の参拝客で賑わいをみせます。