最古の富士登拝道である「大宮・村山口登山道」。
6合目以高は、世界文化遺産(「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」)に登録されていますが、登山口から6合目までは廃道化しています。
その原因は、宝永山の大爆発と、明治初めの神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)にあるのです。
村山浅間神社で、神仏習合時代の名残を探します。(TOPの画像は大日堂と村山浅間神社)
水垢離場など修験道の名残が現存
村山浅間神社(以前は富士根本宮=ふじこんぽんぐうと号しました)の鎮座する富士宮市村山地区は、富士山における修験道の中心地。
閉山時代末期から鎌倉時代にかけて、富士山頂に大日寺を建立したと伝わる末代上人(まつだいしょうにん=村山修験の祖)あるいは、末代上人にかかわる修験者が、富士山興法寺を創建。
村山浅間神社とともに神仏習合の地として発展しました。
村山浅間神社の祭神(富士山信仰の神様)は、江戸初期までは「赫夜姫」(かぐやひめ=『竹取物語』に登場)。
愛鷹(=竹取の翁)は瀧川神社、犬飼(=竹取の嫗)は今宮浅間神社に祀られています。
富士講の隆盛した江戸時代には、村山三坊(池西坊・辻之坊・大鏡坊)が興法寺や村山浅間神社、集落とともに、大宮・村山口登拝道や山頂の大日堂(本地仏の大日如来を祀る)を管理します。
三坊の免許を受けた先達(せんだつ=案内人・リーダーのこと)が、道者を連れて村山を訪れたのです。
さらに富士講では富士山の神様が「赫夜姫」(かぐやひめ)から木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)に変わります。
江戸時代中頃に富士講が繁栄し、庶民の富士登拝が盛んになると関東からの登山者は、須走口(東口)、須山口(南口)、吉田口を使うようになります。村山口はおもに関西からの利用者に絞られます。
修験の作法にのっとって、村山から登山する「富士行者」は7日間の水垢離で身を清めてから登山することが定められていましたが、富士講は、その水垢離も在地でするようにしたので、さらに村山口の存在感は薄れてゆきます。
↑水垢離場は現存。「竜頭ヶ池」という場所から水を引き、それを聖水として滝に打たれて身を清めた後、不動明王に安全を祈願しました
↑護摩壇。大日堂東側にあり、正面奥に不動明王石像が祀られています
廃仏毀釈で大きく荒廃
明治初年の神仏分離令で、村山三坊の修験者は還俗し(僧籍を離れ民間人になりました)、興法寺は廃寺となり、興法寺の中心的な堂社であった本地大日堂と村山浅間神社は分離されたのです。ご丁寧にも村山浅間神社と大日堂は境域を分けられ、間に柵が設けられました。
往時には富士山本宮浅間大社と肩を並べるほど隆盛した村山浅間神社は、富士山本宮浅間大社の摂社に組み込まれ、富士山中の仏像が集められた大日堂は固く戸が閉ざされます。
末代を祀る大棟梁権現社(だいとうりょうごんげんしゃ=現在の大日堂の北側にあった)は廃され、場所を変え祭神を大己貴命へ改めて高嶺総鎮守として祀られています。
村山が管理していた富士山頂の大日堂は富士山本宮浅間大社へ売却され、富士山本宮浅間大社奥宮に変身。
登山道の雲霧不動堂は雲霧神社へ改称されました。
明治5年の修験道の禁止、明治7年の廃仏毀釈では、国家神道政策、明治天皇の神格化などに伴って「富士山山掃除」と称して山中の仏像はことごとく破却されてしまいます。
さらには明治39年、登山新道(新村山口登山道)の開削により、「大宮・村山口登山道」と村山口の大日堂と村山浅間神社は一気に荒廃していきます。
↑村山浅間神社の拝殿。奥にかつての大棟梁権現社の鳥居があります
村山浅間神社 | |
施設名 | 村山浅間神社/むらやませんげんじんじゃ |
住所 | 静岡県富士宮市村山水神1151 |
関連HP | 富士宮市公式ホームページ |
ドライブで | 新東名高速道路新富士ICから約13km |
駐車場 | 8台/無料、スポーツビレッジ村山ジャンボ駐車場(70台/無料)も可能 |
問い合わせ | 村山浅間神社案内所 TEL:0544-26-6713 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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