静岡県榛原郡吉田町にある戦国時代の城跡が、小山城(こやまじょう)。「展望台小山城」という立派な模擬天守がそびえていますが、静岡県外の人でその存在を知る人は多くはありません。歴史的には武田信玄と松平家康(徳川家康)攻防の地で、駿河にありながら信玄が遠州攻略の拠点として整備しています。
武田信玄の遠州攻略、上洛の拠点として機能した城

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで駿府を拠点とする今川義元が敗北すると、松平家康(徳川家康)は、今川義元の子・今川氏真と対立、永禄5年(1562年)、織田信長と清洲同盟を結んで、三河国の平定を果たします。
永禄10年(1567年)、徳川家康は、長男の竹千代(松平信康)と信長の娘・徳姫を政略結婚させて、同盟を強化しています。
甲斐国・武田信玄も、永禄11年(1568年)、今川義元時代に締結した甲相駿三国同盟を破って駿河へ侵攻、家康は信玄と約定を交わして遠江国へと侵入しています。
この約定は、江戸時代初期に旗本・大久保忠教が記した『三河物語』には、大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠州を徳川領とするものとしていますが、武田家臣の秋山虎繁が遠州に侵攻するなど不安定な関係でした。
永禄11年(1568年)、信玄は大井川を渡って遠州に侵攻、元亀2年(1571年)には山崎の砦を攻略して、新たに小山城と名付けています。
小山城は高天神城攻略、遠州平定、さらに京への上洛の拠点となる城で、実際に三方ヶ原の戦いで徳川軍を打ち破っているのです。
対する家康は元亀元年(1570年)、岡崎から曳馬城に拠点を移し、浜松城を築城。
三方ヶ原の戦いでは命からがら逃げ延びたのが浜松城で、最終防衛ラインは浜松城となったのです。
本来は天守のない城に、「展望台小山城」が建つ

信玄没後に武田勝頼は、小山城に加えて、諏訪原城を築城して高天神城攻めの準備を行ないます。
長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に敗れた後も、小山城は3重の堀に守られた堅牢な城で徳川軍も攻め落とすことができませんでした。
徳川軍は兵糧攻めに転じますが、織田軍の甲州侵攻が開始されると、城を守る兵士は城に火を放って逃走しています。
現在の「天守」は、昭和62年に吉田町が町のシンボルとして建設した「展望台小山城」。
3層5階で、最上階の5階は展望施設として機能を果たすほか、1階〜2階は資料館となっています。
「展望台小山城」は、犬山城を模していますが、根拠はなく、戦国時代の城に天守があった可能性もありません。
しかも天守が建つのは本丸ではなく、三の丸跡。
もしあったなら3階程度の物見櫓だと推測できます。
小山城は、甲州流築城術を駆使して馬場信春が縄張りを行なっているので、三日月堀などを有しています。
甲州流の三日月堀に加え、三重の空堀など見どころは豊富な中世の平山城の城跡ですが、天守風の建物はあくまで展望台兼資料館と割り切っての入城を。
| 確実に誤解を生む! まさかの天守閣(25)小山城|静岡県 | |
| 名称 | 小山城/こやまじょう |
| 所在地 | 静岡県榛原郡吉田町片岡2537-1 |
| 電車・バスで | JR藤枝駅南口から静鉄バス相良営業所行きで30分、吉田高校下車、徒歩10分 |
| ドライブで | 東名高速道路吉田ICから約2.5km |
| 駐車場 | 町営駐車場(50台/無料) |
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