県庁所在地としては日本でもっとも広い面積を誇る静岡市。
その北端は、なんと南アルプス・白根三山(白峰三山)の間ノ岳(あいのだけ/標高3189.5m)。奥穂高岳と並んで日本で3番目の高峰は、実は静岡市葵区という行政区画なのです(ここが静岡県の北端にもなっています)。
そんな静岡市のマンホールに描かれた絵柄は、シンプルに市章とタチアオイ。
なぜなのでしょう?
タチアオイは葵の紋とは異なる!?
登呂遺跡、日本平、静岡浅間大社、駿府城などなど居並ぶ観光名所に目もくれず、静岡市のマンホールの絵柄は、埋め尽くすタチアオイの花。
これは、幼少時代に駿府(駿河の府中=静岡市)に人質となり、晩年は温暖な駿府に暮らした徳川家康の「葵の紋」を意識してのことかと思いきや、
「徳川家の紋所『三葉葵』はフタバアオイ(ウマノスズクサ科)を図案化したもので、静岡市の花であるタチアオイとは異なります」(静岡市行政管理課総務係)とのこと。
話を整理すると、タチアオイ(立葵、学名Althaea rosea)は、アオイ科の多年草。日本には、古くから薬用(学名由来のギリシア語「althaia」は「althaino」=治療に関連)として渡来していましたが、花がきれいなので、日本では園芸用に改良されてきました。
対するフタバアオイ(二葉葵、学名Asarum caulescens Maxim)は、ウマノスズクサ科の多年草。日本固有種で、ハート型の葉に特徴が。
水戸黄門御一行が「この紋所が目に入らぬか!」と差し出す徳川家の紋所(同じ徳川家でも微妙な違いはありますが)は、「丸に三つ葉葵」。
ウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもので、フタバアオイの通常の葉の数は2枚ですから、三つ葉のフタバアオイは架空のもの。つまりは創作デザイン。
もともと葵の御紋は、京・賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)の神紋(二葉葵・加茂葵=『賀茂祭』を『葵祭』と通称するのもそのため)で、賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士が葵の紋を採用したというわけです。
『柳営秘鑑』によれば、文明7年7月の安祥合戦の際に、松平信光から合戦勝利に貢献したことで、酒井家の紋とするように下賜されたのが三つ葉葵の紋。のちに三つ葉葵を召し上げた代わりに、三つ葉葵の図案に似せた酢漿草紋(かたばみもん)を酒井に与えたのだとか。
『三河後風土記』にも酒井氏由来とありますが、家康生誕の地である『岡崎市史』には松平親氏・泰親が東加茂郡松平郷(現・豊田市)に入った後、賀茂明神に祈願し家紋としたと記されており真相は定かでありません。
フタバアオイは単なる葉っぱ!?
現在、賀茂神社の神紋で、徳川将軍家の家紋であるフタバアオイを「市の花」にしている市町村はありません。
タチアオイを「市の花」にするのは静岡市と、もう1ヶ所、会津若松市。
会津若松市は、昭和42年の『戊辰百年祭』の記念行事の一環として一般市民から公募して、「市の花」=タチアオイを定めています。
会津藩藩主は、徳川ファミリーの松平家。白虎隊で有名な戊辰戦争の時の藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は、尾張藩支藩の高須藩出身という、正統派徳川の家柄なのです。
というわけで、徳川家康ゆかりで、天領もしくは徳川家直轄だった駿府藩(駿河府中藩)と、明治維新の際に最後まで抵抗した会津藩という徳川家にゆかりの深い2大都市の「市の花」がタチアオイというのは偶然ではありません。
静岡市の解説では、「静岡にゆかりの『葵』という呼び名を持つものの内でも、花が美しいことで知られ、かつ栽培に容易なものを選んだ結果がタチアオイ」ということで、平成17年4月13日に制定されています。
補足すれば、葵の紋に描かれるフタバアオイは、単なる葉っぱ。花は小さくて、地表に俯いて咲くため「市の花」には実に不向きだったということ。
マンホールに描かれた市章は、清水市との合併時、平成15年4月1日直後の5月29日に制定。
全国から寄せられた674件のデザインの中から、市民投票を経て決定したもので、静岡・清水、そして新「静岡市」の頭文字「S」をデザインの基本に、富士山(上部の白)と駿河湾の波(下部の青)を表したもの。
「シンボルカラーの『ブルー』(smalt/スマルト=コバルトガラスを粉末にした顔料の明るい青)は、清潔感と透明性を表し、空や海のようにどこまでも続く国際性、開放感を表現しています」(静岡市総務局行政管理課総務係)とのこと。