平成27年は、徳川家康没後400周年でした。
静岡市では「徳川家康公顕彰四百年記念事業」(400年祭)として、さまざまな催しが行なわれました。そのひとつとして制作されたのが「消火栓マンホール」です。
消火栓マンホールの絵柄は久能山東照宮、三保松原、日本平からの富士山の眺望という、静岡市を象徴する3つの絵柄をモチーフにしたデザインで、JR静岡駅北口から静岡浅間神社までのエリアの40ヶ所に設置されています。デザインはそのままで13分の1サイズにしたストラップもつくられています。
久能山東照宮は家康が祭神
家康は晩年には、息子・秀忠に家督(将軍職)を譲り、駿府城で隠居生活を送りました。隠居といっても実際には自らのことを「大御所様」と呼ばせ、威光が衰えなかったと伝えられています。
そんな、家康は「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説きました。元和2年(1617年)4月に死去後、遺命により、遺骸は久能山に葬られています。
元和2年12月、2代将軍・秀忠が東照社の社殿を造営。創建当時の姿がほぼそのまま残る荘厳な久能山東照宮は、本殿、石の間、拝殿が平成22年に国宝に指定されています。
久能山は駿府城の守りの要
かつて久能山には飛鳥時代創建の久能寺という寺がありました。
戦国時代、駿河に侵攻した武田信玄は、北条の水軍と対峙するために守りやすく攻めづらい天然の要害・久能山に着目。久能山にあった久能寺を麓に移し(現在の鉄舟寺)、久能城を築いたのです。
信玄亡き後、ようやく駿河を領有するようになった家康は久能城を守りの拠点とします。
やがて、幕府を開き大御所となった家康ですが、江戸防備の要である駿府城、そして、その駿府城を守る要塞が久能城という位置づけから、「駿府城の本丸は久能山」という台詞になって表れたのでしょう。
久能山東照宮最奥に眠る東照大権現こと家康ですが、その墓の向いている方向はなんとなく故郷の三河方面とも思えますが、権宮司によれば「西国を睨んでいるともいわれている」のだとか。死して神になり秀忠以下の徳川家繁栄を願って家康はこの地に埋葬されたのです。
日本白砂青松百選にも選定される三保松原
久能山東照宮の他に「消火栓マンホール」の絵柄には駿河湾越しに眺める富士山と松原が描かれています。
その松原が世界文化遺産富士山(「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」)の構成資産のひとつにもなっている三保松原です。
三保松原は駿河湾に突き出す三保半島に位置する、南北約7kmの砂浜で、一帯に美しい松林が連なります。砂浜のほぼ中央に、天女が衣を掛けたいう伝説が残る「羽衣の松」も添え木に支えられていますが健在です。「羽衣の松」は樹齢およそ650年、高さ12m、主幹の周囲は3.5mにもなるクロマツです。
三保松原から眺める富士の雄姿は素晴らしく、新日本三景のひとつに数えられています。