富士山の須走口(すばしりぐち=東口)登山道の起点に鎮座するのが冨士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)。
東口本宮冨士浅間神社、須走浅間神社とも称されています。
世界遺産富士山(「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」)の構成資産の一つにもなっています。
須走口に鎮座する東口本宮冨士浅間神社
延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火をしたため国司・郡司が山麓に斎場を設け、鎮火祭を斎行。
すると初申の日に噴火が収まったのだとか。
大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、創建した社が冨士浅間神社。
空海が修行し、富士登山をしたという伝承もあり、中世の神仏習合の時代には弘法寺浅間宮と称していたのだという。
ただし、空海が東国に来たという歴史的な事実はなく、あくまでも伝承の域を出ません。
戦国時代以降、須走は、宿場町、そして富士登山口として栄え、須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社も冨士浅間神社が管理しました。
須走口から登山する場合は、まず、冨士浅間神社に参拝するのが習わしでした。
↑表参道の大鳥居は明治33年に氏子が寄進したもの。須走口全盛時代の名残の鳥居です。扁額には「不二山」の文字が刻まれています
繁栄したのは大正時代から昭和初頭
須走登山口がもっとも繁栄したのは、大正時代から昭和初頭。登山道につながる裏参道沿いの講碑群はその時代に富士講の各講社により建立・寄進されたものが大部分を占めています。
明治22年2月1日、東海道線国府津〜御殿場〜沼津〜静岡が開通。昭和9年12月1日に丹那トンネル開通するまで、現在の御殿場線が東海道線でした。
つまりは、東京方面からの富士登山者は、明治22年から昭和9年まで、現在の御殿場線を使って富士登山をするのが便利だったのです。
日清戦争後の好景気に沸いていた明治29年には、御殿場駅(新橋村)〜須走村に馬車鉄道の計画が申請され、御殿場馬車鉄道株式会社が設立します。
明治32年に須走村まで開通。さらに明治34年には籠坂峠に延伸し、都留馬車鉄道と接続。明治36年には都留馬車鉄道・富士馬車鉄道が大月まで開通し、中央線との回遊ルートも生まれました。
こうして明治後半から昭和初期に、須走からの登山者は全盛期を迎え、同時に東口本宮冨士浅間神社も多くの参拝者で賑わったのです。
須走の門前町は、今も富士登山の繁栄の名残を残しています。須走本通りに建つ「ホテル米山館」も明治時代には富士講の登山者の定宿でした。
須走本通りには、御殿場馬車鉄道が走っていました。
昭和5年には、須走口で、東京日々新聞社主催の『動物登山競争』も行なわれています。須走驢馬、吉田口牛、御殿場豚、富士宮口馬と登山口の動物が集結し、富士登山のスピードを競うという珍レース。優勝したのは地元・須走の驢馬「おたま君」だったとか。
↑富士講の各講社建立した碑
現存する社殿は宝永大噴火後の再建
社殿(本殿・幣殿・拝殿)、随神門は、宝永4年(1707年)の富士山・宝永大噴火で損壊。
現存する社殿、随神門は、小田原藩主・大久保加賀守による再建です。
境内の西半分は、鎮守の杜である浅間の杜が占めていますが、その脇を貫く道は駿河・伊豆・相模と甲斐を結ぶ鎌倉往還です。
また須走は、日本野鳥の会を創設した故・中西悟堂が、昭和9年に日本で最初の探鳥会を開催した場所であることから、境内に記念碑が立っています。
境内入り口にある近代的な社務所の2階は、御鎮座1200年を記念した資料館になっています。
↑随神(門神)・櫛岩間戸神と豊岩間戸神が鎮座する随神門
宝永大噴火と須走
宝永大噴火の際の小田原藩主・大久保忠増は、幕府の老中にもなっていました。
『大久保家記』には、
「須走村高札場砂にて埋まり、札覆の屋根計り少し見る、浅間神社鳥居半分過砂にて埋り見へず、拝殿は屋根計り少し見へ、御本社軒際まで埋まる」
と記されています。宝永大噴火でもっとも被害の大きかった須走村は3m〜3.5mほどの焼き砂(火山灰)で埋め尽くされたのです。
元禄16年(1703年)の元禄大地震、宝永4年(1707年)の宝永地震、そして宝永大噴火と連続する大災害で、小田原藩領の駿東郡59ヶ村、足柄上郡104ヶ村の農民は疲弊します。
小田原藩は足柄上郡と駿東郡の領地返上を幕府に願い出て、それが認められ、須走を含む駿東郡と足柄上郡は天領(幕府の領有)となりました。
関東郡代・伊奈忠順は、砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任命されます。
伊奈忠順は、少ない予算に難儀しますが、アイデアを用いて復興に尽力。
表面の土と下にある栄養分の高い土を入れ替える土壌改良法である天地返しを応用し、火山礫で溝を埋め掘り起こした土を火山礫の上に盛り返して見事に田畑を回復させています。
↑太鼓橋の左に落ちる信しげの滝