「一富士 二鷹 三茄子」は家康ゆかりの駿河の名産!

「一富士二鷹三茄子」は、故事ことわざ辞典などによれば、「初夢に見ると縁起が良いとされるものを、めでたい順に並べた句」
とされています。
富士は不死あるいは無事、鷹は高い、茄子は成すに通じるとか様々な解釈がありますが、その真相に迫る話が家康の隠居先となった駿府(静岡市)には伝わっています。

「一富士二鷹三茄子」は家康のセリフ!?

慶長11年(1606年)、徳川家康は、徳川幕府を盤石に世襲するために、自らの隠居を決め、徳川秀忠に将軍職を譲ります。
家康は隠居先をゆかりの地、駿府にすることを決めます。
そのとき側室のひとりが、
「何故駿府に移られますか、理由が解りません」と言上。
すると家康は、
「駿河には一に富士山がある。これは三国中(日本・中国・天竺)の中でも唯一の名山だ。見飽きることがない。二に鷹がよい(家康は軍事訓練の一環として鷹狩りを奨励していた)。三に茄子が名産で、しかも他所(よそ)より早く味わうことができ、美味い」
と諭したのだとか。

話としてはいかにもありそうですが、残念ながら裏付ける古文書が見あたりません。
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家康の名セリフを生み出した側室は誰!?

「駿河なんかになぜ行くの?」と家康に語り、「一富士二鷹三茄子」を引き出した側室は誰なのでしょう?

慶長11年の時には、家康は2人の正室(築山殿、朝日姫)を失い、16人の側室がいました。
側室のうち、於都摩の方、阿牟須の方、秀忠を生んだ於愛の方は没しており、西郡の方も伏見城で病に伏せていたから除外されます。
まだ側室になっていない女性も除外すると・・・。
大坂冬の陣、和議の使者となり交渉にあたった阿茶局(須和)、家康の死に水をとった於茶阿、同じく駿府に伴われ、大坂冬の陣では本陣に供奉した於夏、駿府城にて家康の末子・市姫を生み、家康没後、鎌倉に英勝寺を建立した於梶、さらには駿府城下に墓のある於久の方(華陽院)そして於万の方(蓮永寺)あたりではないかと推測できます。

江戸時代の随筆に記された「一富士二鷹三茄子」

江戸時代中期(18世紀)の紀行家で京の豪商・百井塘雨の『笈埃随筆』に、
「世の人此山を夢見る時は吉瑞なりとて一ふし二鷹三茄子とて同く吉兆とす或人曰此三事夢の判にはあらす皆駿州の名産の次第をいふ事也富士は更也二鷹は富士より出る鷹は唐種にて良也こまかへりといふ三茄子は我国第一に早く出す処の名産なれはなりといへり」。
⇒「一富士二鷹三茄子」は駿河の名産で、鷹も富士山麓で産したとあるので、富士山麓の広葉樹林に棲むオオタカのことでしょう。

さらに肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清の随筆集である『甲子夜話』(かっしやわ=1821年〜1841年の随筆)に、
「楽翁の語られしは世に一富士二鷹三茄子と謂ことあり此起りは神君駿城に御坐ありしとき初茄子の価貴くして数銭を以て買得るゆゑその価の高きを云はん迚まつ一に高きは富士山なりその次は足高山なり其次は初茄子なりと云しことなり彼土俗は足高山をたかとのみ略語に云ゆゑなるを今にては鷹と訛り其末は三物は目出度ものをよせたるなと心得画にかき掛て翫ふに至るは余りなることなり」
⇒家康が駿河にいたときに、富士山の標高、愛鷹山の標高、初茄子の値段が高さを語ったものが、富士山、鷹、茄子に転じたと解説しています。
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「一富士」はズバリ、三保からの富士

「一富士」は、どう考えても三保の松原からの富士山でしょう。
駿府城主となった徳川頼宣は隠居した家康のために慶長14年(1609年)、下清水村(現、静岡市清水区岡町)に清水御殿を造営。八幡神社(静岡県静岡市清水区岡町2-3)一帯が殿上の間、松の間、柳の間などがあった場所だとか。
慶長15年(1610年)、三保に貝島御殿を完成させます。別名浜御殿または富士見御殿とも呼ばれていますが、わざわざ富士山を眺望するための富士見櫓まで備えていました。

家康は、単に風光明媚だから御殿を構えたのでしょうか。たしかに御座船に乗って折戸湾を周遊し、興津・清見寺へ参詣したと伝えられています。
しかし、その別荘建設の背後には、ここに御殿を建てることによって駿河湾を往来する船舶への無言の圧力、さらには徳川水軍の士気の高揚という隠れた目的もあったと推測できます。
徳川水軍の中心人物・向井正綱(むかいまさつな)の墓が清見寺にあるのも偶然ではありません。
向井正綱は、もともと武田信玄の配下でしたが、武田家滅亡後、家康にスカウトされ、ついには御召船奉行に出世しています。

豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めたとき、家康は兵糧20万石を大船数十艘を手配して清水湊に貯え、以降、清水湊は実戦に備えた徳川水軍の拠点として機能しています。
一富士(三保)

「二鷹」は家康の鷹狩もしくは愛鷹山

「二鷹」に関しては上記の江戸時代の随筆でも意見が分かれるところです。富士の前衛峰である愛鷹山と考えるのか、素直に富士山麓産の鷹と解釈するのか。
「一富士」の三保別荘でも家康の隠れた狙いがあった可能性が大ですから、やはり、鷹狩の鷹ととらえるのが妥当と思います。
家康の鷹狩は、浜松城主時代にも軍事訓練の一環として行なわれています。
流派は織田信長に仕えたとされる諏訪流です。
家康は山で雉などを狙うのではなく、平地で鶴や鴨などを狩る方を好んだので、慶長17年(1612年)正月には朝廷に鶴を献上しています。
軍事訓練といえ、家康の鷹狩は重臣にたしなめられたこともあるという側室同伴。
生涯1000回は行なっているという趣味の鷹狩ですが、その背後には、民情視察が隠されていたことは確実です。
それは駿府城近隣だけでなく、遠くまで(とくに東海道を西へ)足を伸ばしていることからも裏付けできます。
慶長15年(1610年)=遠江中泉(静岡県磐田市)までの往復で、鶴を36羽捕獲。駿河・遠州の視察。
慶長17年(1612年)=三河吉良(愛知県西尾市吉良町)までの往復で、鶴76羽捕獲。遠州・三河の視察。
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「三茄子」の茄子は三保で生産の「折戸なす」

ではでは最後の「三茄子」の茄子(ナスビ)は、何なのかといえば、当時、三保半島で栽培されていた折戸茄子。
「孝行をなすは駿河の不二のねにその名も高き三保の松原」という小谷三志(こだにさんし/1766年〜1841年)の直筆和歌が出身地である埼玉県川口市鳩ヶ谷の郷土資料館に現存しています(川口市の文化財)。
孝行を尊重した不二道(富士を信仰する「富士講」が発展して独自の不二道を生み出しました)の思想を織り込んだ和歌。

この歌は、江戸時代に三保の松原周辺で産する茄子が有名だったことを物語っています(孝行をなす=茄子とかけている)。

温暖な駿府ですが、三保はさらに温かで、テニスボール大の丸茄子、折戸茄子が特産でした。
形が丸く、ヘタに鋭いトゲがあり、味も濃厚なのが特徴。
下清水村は茄子を家康に献上していたのです。将軍家にも献上されていた初物の折戸茄子は1個1両したという逸話も。

明治時代以降は、栽培されることもほとんどなくなった折戸茄子。
平成17年に静岡県中部農林事務所(静岡市駿河区)に勤務していた望月利英さんが歴史好きな上司に「文献を元に三保半島をナスの特産地にしよう」と提案され、ついに復活させています。
運良く、野菜茶業研究所(三重県津市)に種子が保存されており、それを元に生産農家を増やし、今では10トン以上の出荷ができるまでに成長。
JAしみず折戸なす研究会も結成され、ブランド化が進んでいます。

家康ゆかりの「折戸なす」の出荷は、5月中旬~12月上旬です。
ちなみに静岡県立大・丹羽康夫助教の遺伝子解析により、京の賀茂茄子と、「折戸なす」に類縁関係があることが判明しています。
賀茂茄子のルーツは、「折戸なす」なのかもしれません。
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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。