【マンホールで知る町自慢】掛川市

掛川市のマンホールの絵柄はズバリ、掛川城。
掛川市の玄関口でもあるJR掛川駅の在来線ホームをつなぐ跨線橋の窓からも掛川城の美しい姿が見られるように設計されています。

掛川城の城下町&東海道の宿場町

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↑跨線橋からの掛川城

掛川城は室町時代、駿河(現・静岡県の伊豆を除く大井川以東)の守護大名・今川氏が遠江(とおとうみ/現・静岡県の大井川以西)進出のために、朝比奈氏に命じて築城したのが始まり。
戦国時代には豊臣秀吉の家臣・山内一豊が城主として10年間在城し、大幅に拡張。石垣を築き、近世城郭としての体裁を整えました。

その後、一豊は関ヶ原の戦いの直前、有名な「小山評定」(下野国小山/現・栃木県小山市で開かれた歴史的軍議、会津征伐に従軍した諸大名を招集し石田三成の挙兵に対する対応を軍議)の際に徳川家康にいち早く掛川城を差し出し(東海道筋の諸大名がこれにならったため)、家康の天下統一後にその功績が認められるかたちで掛川から土佐(現・高知県)に加増国替、高知城を築きました。

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↑「東海の名城」と呼ばれた掛川城

掛川城と高知城はソックリ!

「南海の名城」と呼ばれる高知城天守は現存。
残念ながら山内一豊築城の高知城天守は享保12年(1727年)に焼失。現存する天守は、延享4年(1747年)に再建されたものです。しかし、この再建天守、創建時の天守を忠実に再現したと伝えられるので、外観は一豊時代と同じだと推測されているのです。

「天守が意外に小さい」といわれる3層6階の高知城天守ですが、実は突貫工事のために掛川城の天守を模して築かれました。
現在の掛川城天守は、平成6年に絵図などの調査に基づき高知城を参考に、なんと木造で忠実に再現されたもの。
つまり、掛川城天守は「掛川城天守を模した高知城天守」を参考に築かれたというワケです。
天守閣に続いて平成7年には大手門も復元されています。

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↑復元された大手門

ところで、山内一豊といえば妻の「内助の功」に関する数々のエピソードでも有名。
夫・一豊のために結婚の持参金、黄金10両で名馬(鏡栗毛)を購入した話は広く知られています。購入した名馬は、馬揃えの際に主君織田信長の目に留まり、出世街道を進みます(『藩翰譜』、『鳩巣小説』、『常山紀談』による)。
平成18年のNHK大河ドラマ『功名が辻』(原作/司馬遼太郎、主演仲間由紀恵、上川隆也)は、 山内一豊とその妻・千代が主人公。当然、掛川城も注目を集めました。

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↑山内一豊と妻・お千代の顔出し

掛川の土産には掛川茶や葛布

掛川市の特産品は掛川茶。
深蒸し煎茶で普通の煎茶よりも蒸し時間を2倍から3倍長くして、濃厚で鮮やかな緑色、自然の甘みが感じられる深い味わいが特徴です。
また、古くからの特産品は掛川手織葛布(くずふ)。
鎌倉時代からの製法を受け継ぎ、江戸時代には裃(かみしも)や合羽(かっぱ)などに使われ珍重されました。
東海道掛川宿の繁栄とともに栄え、江戸時代中期に編纂された『和漢三才図会』(江戸時代の百科事典)にも「葛布は遠州懸川より出ず」と記されるほどでした。
現在、 織元の数も減少しましたが、自然素材のもつ素朴な温かさと手作りの味わいが愛され、インテリアや和装小物、日傘やバック、民芸品などさまざまな製品となっています。

さて、話をマンホールに戻すと絵柄は掛川城とキキョウ。
キキョウ(桔梗)は「市の花」で、幕末まで7代続いた掛川藩主・太田家の家紋です。
東海道の要衝(駿府城の西の入口)を守る掛川は、江戸時代、松平家、井伊家、小笠原家、太田家と徳川譜代の大名が藩主を務めています。
つまり、山内一豊が高知藩の藩祖となったのも、関ヶ原の功臣とはいえ、出自が豊臣方なので、実は体のいい「地方転勤」といえるのです。

掛川のマンホールの絵柄、掛川城とキキョウにはそんな戦国時代と、泰平の世となった江戸時代の歴史ドラマが秘められているのです。

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↑マンホールの絵柄は掛川城とキキョウ

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たけだゆきえ

(一社)プレスマンユニオン事務局長。 全国を取材するかたわら、デザインマンホールに注目しています。なぜなら、そこには郷土の自慢が凝縮されているから。何気ない足下のマンホールが、実は地域活性にとって重要な役割を担っていることから、ウエブマガジン「マンホールStyle」を運営中です!