寝姿山山頂に置かれた黒船見張り所

江戸時代、伊豆半島先端の湊町・下田は江戸(現在の東京)と大坂(大阪)を結ぶ航路上にあたり、舟番所(下田湾大浦)が置かれていました。幕末に寝姿山の山頂には外国船を監視する見張り所が設けられました。

江戸時代、下田は「海の関所」だった

明治以前は物流といえば、日本海側の北前船、太平洋側の菱垣廻船(ひがきかいせん)・樽廻船が担っていました。
伊豆半島沿岸部では昭和の初めまで、舟運が物流の大部分を支えていました。
江戸初期に大坂(上方)と江戸とは平均して輸送には1ヶ月ほどかかりましたが、廻船の大型化・高速化、帆走化によって江戸中期には半分の15日ほどに短縮されています。

下田奉行所の見張り所は、元和2年(1616年)、須崎に遠見番所が設置されたのが始まり。当然、この番所は江戸と大坂を結ぶ国内航路の廻船の監視が主たる目的でした。

元和9年(1623年)、遠見番所は下田・大浦に移転。
寛永13年(1636年)、番所を改築し「船改め番所」とし江戸往来の船は全船ここに立ち寄りを義務付け検問を実施するようになりました。
箱根が「陸の関所」として検問を強化したのに対し、海上輸送を睨む「海の関所」が下田だったというわけです。

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↑『摂津名所図会』に描かれた安治川河口をゆく樽廻船、菱垣廻船(国立国会図書館蔵)

異国船監視の舞台は下田から浦賀へと移った!

イギリスと清国(中国)とのアヘン戦争は1842年に終結(南京条約締結)し、イギリスのサラマンダ号、サラマン号、スターリング号が琉球や長崎にやって来ていました。
幕府はアヘン戦争勃発を機に天保13年(1842年)、浦賀に移されていた奉行所を下田に復活。
翌天保14年(1843年)、幕府は州佐里崎(須崎)・狼煙崎(鍋田湾西岸の岬)、沼津藩は三穂ヶ崎(白浜海岸と外浦海岸の間の岬)に砲台を構える御台場を築造。

嘉永2年閏4月8日(1849年)英国測量船マリーナ号が浦賀に来航、千代ヶ崎沖に碇泊。4月9日、江戸湾の測量を行ない、帰路、4月10日には下田で小舟に囲まれる騒動が発生。4月12日に下田に寄港。

幕府は、虎視眈々と日本の植民地化を狙うイギリスの目を感じていたでしょう。
幕府は急遽、寝姿山の頂に見張り所を設け、黒船の監視を行ないました。
現地の看板には下田奉行所より役人数名を派遣とありますが、嘉永2年当時、下田に奉行所はありません。
天保15年(弘化元年/1844年)5月に廃止され、ペリー下田上陸の嘉永7年(1854年)まで設置されていません。
ここでの異国船発見の情報がどういう方法で江戸幕府に伝達されたのかは定かでありません。

実は下田奉行所が廃止される3ヶ月前の天保15年2月には下田湊の入口に設置された台場も廃止されています。
このことから類推できるのは、諸外国の興味は伊豆半島の先端ではなく、江戸湾に移った。
つまり下田が担った外国船監視の役割は、浦賀に移ったということです。

天保13年(1842年)に下田奉行所が復活され、外国船監視の役割を担いますが、すぐにその使命も浦賀に移ります。
いざ、ペリー来航となった時点で、幕府の意向で江戸から遠い下田にぺりーを上陸させたことから、再び下田が歴史の表舞台へと。

幕府のあたふたが垣間見える寝姿山の見張り所というわけです。
現在は園地となって大砲のレプリカが置かれていますが、実はこの大砲も黒船の大砲のレプリカ。
この山上に大砲を置いてもとても下田沖の艦船には届きません。
だから、ここは単なる監視施設だったと推測できます。
で、黒船発見を、早飛脚で韮山や江戸へ?
監視というより、発見連絡施設といった感じです。

「江戸時代のお役所仕事」の代表格だといったら言い過ぎでしょうか。

miharisyo
 

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